The Ballad of the Sad Cafe (悲しき酒場のバラード)  by Carson McCullers

カーソン・マッカラーズという女流作家についてはいくつか知られていることがある。南部作家であること。アル中であったこと。レズビアンであったこと。そして小説のタイトルが過剰にセンチメンタルであることだ。

 

代表作の『心は寂しき狩人』からしてすごい。でも小説はセンチメンタルというより重量級の南部ゴシック小説だ。この点でマッカラーズとよく対比されるのが同じく南部の女流作家であるフラナリー・オコナーだ。代表作の「善人はなかなか見つからない」は単なるクリシェだ。言ってみればことわざみたいなものだ。小説ではこういう手垢のついた表現をさかんに口に出し「みんな」が「ずっと」生きてきたやり方で生きていけばいいと思っている人々がとんでもない目に合う。要はタイトル自体が読者を釣る仕掛けのようになっているのだ。ところが、マッカラーズもオコナーも、タイトルの好みは違うけれどその小説の衝撃度合いは似たようなものだ。

 

「悲しき酒場のバラード」は、タイトルだけ見ると夜更けの酒場で美しい女性がマスターになぐさめられているといったような情景を想像してしまうが、あにはからんや、実態は怪獣大戦争である。

主人公のアメリアは男まさりどころか半分以上男のような女性で、吝嗇、愛想が悪い、と悪いところだらけのようだが、金儲けの才はあり医療技術もある。彼女は以前にほんの少しの期間だけ結婚していたのだが、たぶんレズビアンである彼女は男とのいっさいの肉体的接触を拒否し、男を叩き出してしまった。

そんなアメリアのところに彼女のいとこを名乗るせむしの男がやって来るところからすべてが始まる。アメリアはなぜかこのせむし男を気に入り、家に入れかいがいしく世話をする。そしてそれまで愛想が悪いにもほどがあったアメリアは酒場を開き、そこが村人たちの交流の中心となる。

 

しかし好事魔多しで、以前アメリアが叩き出した男が村に戻ってくる。かれはもともと暴力的な気質であったが、挫折はかれを凶悪な犯罪者に変え、刑務所に入っていたのだ。釈放されたかれは憎悪を抱えてアメリアのもとにやって来るのだが、ここからの展開がとんでもない。予想できる人はおそらくいないだろう。

 

この小説の大事なポイントのひとつは「愛すること」なのだと思う。小説中の愛はちっとも報われない。愛することで人は弱くなり、孤独になる。それでも人は誰かを愛さざるをえない、わけではない。家に閉じこもり、ときどき窓の外をうかがうだけになったアメリアの姿はそういうことを伝えてくる。それでは北斗の拳サウザーのように、愛なんて捨てればいいのだろうか。そういうわけでもない。人を愛したアメリアと彼女の元夫は少なくとも人間的である。それに比して、誰も愛さずただアメリアから愛されたせむし男は悪魔的である。小説にかれの年齢がわからないという描写がある。たぶんかれは人間ではない。愛されるだけで愛することをしない人物は「人間」ではないのである。

 

『心は寂しき狩人』とかこの小説を読むと重いパンチをボディに食らったような衝撃を受けるのだが、マッカラーズの短編はかなり口当たりがいい。同じ作者とは思えないくらいだ。南部ゴシック的な感覚があまりなく、ウェルメイドな短編という感じがある。ただちょっとヘミングウェイやらフィッツジェラルドやらの影響も強く感じるのでマッカラーズが独自の才能を発揮したのは中編以上の長さであったのかもしれない。