Missionaries Phil Klay

処女短編集Redploymentが素晴らしかったフィル・クレイの第二作。たいへんに期待して読んだのだが、かなり失望を覚える出来だった。

 

今作ではアフガニスタンの最前線で取材をしている女記者とか、傭兵として働いているその記者の元恋人とか、コロンビアの政府軍で働いている軍人、民兵組織の一員で過酷な過去を持つ青年などさまざまな視点から、戦争というものの総体をとらえようという試みがなされている。前半ではそうした人物たちのひとりひとりのエピソードが語られ、後半になるとかれらがコロンビアに集結し、そこである事件に巻き込まれていくという物語だ。

 

試みは面白いし、力のある作家なのでそれぞれの人物たちも魅力的である。ただこの書き方がフィル・クレイの持つ特性にフィットしているのかという問題を感じざるをえなかった。Redeploymentの素晴らしさは、言ってみれば既存の文脈に回収できないような、内側で爆発して散乱する心をページに叩きつけたような、内奥の混沌を読者の前に差し出したことにあった。しかし今作はプロットベースなので、人物たちの心というよりは物語を語ることに重点が置かれている。また、心理描写においても多くの場合前作のような迫力はなく、まるでドン・デリーロの小説を読んでいるかのような感覚に陥ることも多い。そんな中でアメリカ軍人のメイソンの描写だけは傑出しており、やはりこうした人物を丹念に描くことこそがこの作家の得意分野なのではないだろうか。

 

中南米アメリカ人の関わりに物語を集中させ、そこに勧善懲悪ではあるもののそれだけではない要素を盛り込んだという意味では、エミリー・ブラント主演の『ボーダーライン』を思わせる。全体として映画の脚本のように見えてしまった。

七破風の屋敷  ナサニエル・ホーソーン

 アメリカ・ルネサンスの大家、ナサニエル・ホーソーンの長編小説だが、『ブライズデール・ロマンス』よりはるかに面白かった。

 

 野心に燃えるピンチョン大佐は魔女狩りにかこつけて前々から狙っていた七破風の屋敷の住人を処刑し、それを手に入れる。それから時が下り、零落していたピンチョン家はいまだに屋敷に住み続けていた。呪われた屋敷に住む年老いたヘプジバー婆さんと、無実の罪を着せられ投獄されたショックでほとんど子供がそのまま老人になったような兄クリフォードの身に呪いとしか言いようのない運命が降りかかる、というゴシック小説のような話なのだが、ここにホーソーンの小説ではおなじみの、理論家の若者(ホールグレイヴ)と無垢な少女(フィービー)が配役され、ミステリー小説のような趣も見せながら話が展開していく。

 

 途中までは、生活費を稼ぐために慣れない商売を始めたヘプジバーの奮闘や、そこにやって来たフィービーがいかに屋敷での生活を明るくしたか、クリフォードの過去にいったい何があったのか、などという話で引っ張っていくのだが、終盤の展開がとんでもない。屋敷にやって来たピンチョン判事(クリフォードを陥れた張本人)が屋敷で死に、それを見てパニックになった兄妹は逃亡し、そしてそのすぐあとに故郷に戻っていたフィービーが帰ってくる。ここからが空前絶後の展開である。なぜかホールグレイヴとフィービーはピンチョン判事の死体のそばで恋に落ち、その瞬間に2人は楽園に入るという描写がされる。

 

 その前までピンチョン判事の死体がまったく動かないまま時だけが経っていくという描写が延々とあり、それが終わると今度はまったく変化のない屋敷を背景に時が経っていくという描写がまた延々と続く。その後に来るのがホールグレイヴとフィービーのエピソードである。要はこの瞬間に2人は時を超越して人間的な時間のない世界に入っていくということである。

 

 訳者の青山義孝氏(大変読みやすい素晴らしい翻訳だった)はこれをアポカリプスを経て、時計の時間が世界の時間(神の時間)に変わっていく様を表していると解説している。それはそれで納得のいく論なのだが、それにしても死体のそばで築かれる楽園とはいったいなんなのだろう。

 

 この後、逃亡していたヘプジバーとクリフォードは帰ってきて、ピンチョン判事の死とともにかれの財産を受け継ぎ、みんな楽しく暮らしましたとさという大変に雑なハッピーエンドにつながるのだが、全然ハッピーエンドに感じられない。というのは、ホールグレイヴは催眠術に長けていたモール家の末裔であり、かれが催眠術のような力でフィービーを誘惑したというようなことが書かれている。フィービーは催眠術によって不幸になったアリス・ピンチョンの再来のようにも見えて、本当にハッピーになれるのだろうかという点について大きな疑問符がつく。

 

 この小説は、過去(家系)とは呪いである、という思想に基づいているのだが、最終的にその家系がもたらした財産を受け継ぐことでみんなが幸せになるというのは、やはりそこに崩壊の兆しを胚胎しているとしか考えられない。死体のそばで得る楽園というのはやはりそういうことを示唆しているのだろう。

The Adventures of Tom Sawyer    Mark Twain

 アメリカ文学史上数少ない陽キャ主人公のベストセラー児童文学である。文学には陽キャの主人公は非常に少ない。考えてみるまでもなく、陽キャに文学は必要ないからである。だからこの小説も、昔は自分もこんな感じだったなあ、と多くの読者のノスタルジーを刺激する、なんて評されているが疑わしいものである。トム・ソーヤーが大人になったらまず間違いなく小説なんて読まないからである。

 

 だからこの小説はつねに瀬戸際スレスレを行っている。トム・ソーヤーはその辺にいるガキ大将そのもので、そのガキ大将が町からやってきたかわいい女の子に惚れて、そのうちにインジャン・ジョーという悪党との争いに巻き込まれ、最終的に女の子も宝物もゲットするという、マーク・トウェインの語り口の上手さがなければ陳腐そのものの物語であっただろう。なぜこの小説が、こんなにどこかで見たような話でありながら面白いのか、というのは非常に興味深い。

 

 その理由のひとつは、おそらく悪役インジャン・ジョーとかれと同じく社会からのはぐれ者であるハックルベリー・フィンの存在である。ピーターパンと同じく、トム・ソーヤーはたいして語るべき内面を持たない。(ピーターの方は相当変なのでトムよりは小説の登場人物として興味深いが)かれらは内面にたいした葛藤を持たないので、かれらだけで物語を推進していくことができない。特に「グッド・バッド・ボーイ」であるトムは絶対に社会の規範からははずれないので、トムの小説を丹念に書いたら、まことに面白くもない活発な少年の話ができあがりそうである。下手をすると『ボロ着のディック』みたいな話になりそうである。

 

 しかしインディアンとの混血であるインジャン・ジョーと家庭を持たない浮浪児であるハックルベリー・フィンは明らかに異質であり、物語に動揺をもたらす。インジャン・ジョーは最初は単なる悪役に見えるが、大人の読者からすると、かれの人種的な問題がかれの境遇につながっていることが透けて見えて、だんだん立体的な性格を持つ人物に見えてくる。ことにかれの最期は壮絶である。洞窟に閉じ込められて必死に外に出ようとして死んでいるのを発見されるのだが、それはまるで自由を求めて戦って力尽きた混血児の社会闘争の趣を呈しているように見える。

 

 ハックルベリー・フィンに関しては言うまでもないだろう。家庭も持たず、あらゆる社会的なしがらみから自由なかれは、アメリカ文学における無垢―アメリカン・アダムの系譜に連なり、アメリカ文学の始祖とヘミングウェイが評した『ハックルベリー・フィンの冒険』で主役を務めることになる。この小説でもトムの行動は往々にして鼻につくが、ハックを嫌いな読者は一人もいないだろう。

 

同じように社会からはずれたハックルベリー・フィンとインジャン・ジョーだが、おそらくハックは大人になっても後者のようにはならない。なぜならハックはホイットマンやソローの子孫だからである。人種の問題というより自然への愛着の問題である。

 

トム・ソーヤーの冒険』についての話なのに、いつの間にかハックについての話になってしまった。『ハックルベリー・フィンの冒険』は文学的に『トム・ソーヤーの冒険』とは比べ物にならないくらいの評価を得ているがやはりそういうことなのだろう。

時間の歴史  ジャック・アタリ

主に時計の歴史をたどりながら、時間というものがいかに権力と結びつき、社会を支配してきたかを解き明かしたジャック・アタリの優れた論考。

 

アタリは時間の歴史を「神の時間→身体の時間→機械の時間」とあらわす。

神の時間とは時間がまだ神に属すると考えられていたころの時間観である。古代においては時間は反復するものであったが、そのままでは衰退していってしまう。そこで暴力を解放する場=儀式が用意され、それにより時は再生され、また新しい時間が流れていく。中世においても最も神に近い存在である教会が時間を管理し、修道士たちもその「神の時間」に厳格に従った。

 

ところが商人たちが力を持っていくにつれて時間は世俗化を始める。身体の時間の到来である。人はもはや時間の中に閉じ込められず、ひたすらにさまようようになる。

 

この「身体の時間」はある意味では呪いなのだと思う。時間が自分のあずかり知らない者に管理され、それに従っていく、つまり動物的に時間をとらえているうちは知ることのなかった感情に人はつきまとわれることになるからだ。つまり、時の流れであるとか人の命の有限性であるとか、そういうことがかつてない迫力で人に迫ってくるようになる。人はそれを己の責任の範囲内で処理しなければならない。

 

このあと、時計産業の発達により、正確な懐中時計が誕生する。これとともに「機械の時間」が到来する。「時は金なり」となり、人はひとつの機械となって、速く正確であることを求められるようになる。テイラーイズムやフォーディズムの誕生もむべなるかな、と言えるだろう。

 

最終章にいたってアタリの論考は難易度を増してくる。かれが現代の時間観として提唱するのが「コードの時」である。各種技術が発達した現代においては必ずしも時間の流れの一方向性を前提とした技術ばかりではなくなった。(ビデオなど)こうした時代においては、過去と未来を分けるのは「知っているか」「知らないか」である。知っているものは過去であり知らないものは未来に属する。そしてさまざまな技術の周りにこのようなコードが散りばめられ、個々人はいたるところで時の流れの乱気流を経験する。そうした技術にへばりつくように、あるいは支配されるようにして生み出されるわれわれの時間経験の外に出て、新たな時を創造しなくてはならないというアタリの訴えとともに本は締めくくられる。

Ballen Ground by Ellen Grasgow

Barren Groundは1925年というハイモダニズム全盛期にそんなこと知ったことかとばかりに書かれたちっとも実験的ではない名作である。

 

出だしは限りなくセンチメンタルノベルに近い。田舎の純真な少女であるドリンダは、都会からやってきたジェイソンと恋に落ちる。どうせ捨てられて終わるんだろ、という読者の予想そのままに、ドリンダは妊娠させられ、捨てられる。

 

小説はやたらと宿命論的な考え方に言及するのだけれど、これはまさに宿命論的ですな、とか思ってたらここからがすごかった。ドリンダはその後、ニューヨークに旅立ち、そこで農業技術を学び、故郷に帰ってきてから父たちがどう耕しても「不毛の地」であった土地を実り豊かな大地に変え、一大農主として君臨するのだ。一方、彼女を捨てたジェイソンは零落し、アル中となる。

 

ただ、これがドリンダにとって幸せなことだったのかというと、そうでもない。彼女はジェイソンに捨てられたとき、いわば決定的に壊れてしまったのだ。それからの彼女は愛を知らず、若いときのような感受性も失ってしまう。結婚もするけれど、それはどちらかというと実利を求めての物であって、激しい愛の結果ではない。

 

そうやって北斗の拳サウザーみたいに愛を捨てたドリンダはやがて、健康を損ない、みなに見捨てられたジェイソンを引き取ることになる。ここが切ない。ドリンダは衰弱しきったジェイソンに30年前の姿を見る。そのとき、時が止まる。そしてドリンダは自分の人生の不毛さを嘆く。30年前に彼女は愛を失った。そうやって生きてきたその後の人生に、いったいどれだけの意味があるだろうか。

 

そうやってバーナード・ショウのように人生の無意味さを嘆いて終わるのかと思ったら、最後は土地こそが彼女の救いであって、いつでも彼女のそばにあるのだ、だから彼女は前を向いて生きていくのである、というようなちょっと強引な終わり方をした。このあたりは同じ南部作家であるトマス・ウルフに近いのかもしれない。時間にまつわる問題を、自然に関わる悠久の時間が無化してくれる、というこういう土地に対する信頼が農本主義につながっていくのだろうし、やはり北部のように工業化しなかったアメリカ南部に住む人々の素朴な感情につながっているのだろう。

 

いずれにしても、最初は不毛の地であった土地が、最後には主人公を救うものになっていく、という構図は見事だし、そこに時間の問題をからめているのも興味深かった。なによりドリンダの人物像はこの時代にして非常に新しく、魅力的であったろう。『若草物語』のジョーが自分の意志に従って生きていった場合の姿と言ったらいいだろうか。小説全体も宿命論的な重さがあるが、それに抗して生きていく主人公の姿は大変力強かった。

サバービアの憂鬱  大場正明

50年代アメリカでやにわに発達してきた「郊外」についてさまざまな映画や小説を通して論じた一冊。

 

結論から言うと全体として学部生の卒論レベルの議論だった。いろいろな映画や小説を紹介しているのはいいのだが、それだけで、そこから一向に話が深まらない。というか50年代に勃興した「郊外」という現象ですべてを斬ろうとしているので、話が雑で、平板になっていくのだ。だから50年代「郊外」についての論は面白い。しかしそこからその図式のみを使って60年代以降も論じていこうとするのはさすがに無理がある。それぞれの時代の現象は、もっと複雑な要素の組み合わせの結果であって、それらについてこれも「郊外」あれも「郊外」ということにいったいどれほどの意味があるのだろうか。

 

筆者は映画評論家であるので、映画についての議論はそこそこに興味深い。(それでも旧来の日本映画評論家たちの感想文の域は出ない)しかし文学作品についての議論はもはや壊滅的である。それでもチーヴァーなど50年代作家についての分析は納得できるのだけれど、それ以降の作家たちについてはまたもや単なる感想文である。カーヴァーやバーセルミを「郊外」という一点でのみ分析するのはいくらなんでもありえない。全体的に、なぜそれらの作品が面白いのか、という点ではなくて、なぜ自分がそれらの作品を面白いと思うのか、という点でのみ論じられているので、ただの感想文になってしまっているのだ。これはたとえばフェミニズムの批評家などが陥りがちな過ちで、文学作品としてはちっとも面白くないものを、これは女性が男性に勝つ作品だから素晴らしいなどと評したりする。それは文学批評ではない。単なる自分の趣向の表明である。

 

この本で読む価値があるのは前半3分の1だけである。50年代郊外がどのようにして興り、それはどういった世界であったか、ということについての論はよくまとまっている。個人的に最も興味を惹かれたのは、郊外というものが都市から逃れた人々によって作られ、それゆえ過去を持たずまったく新しい現象として現れたということである。だから郊外には「今ここ」の意識が強くある。というか過去がない。これはチーヴァーの小説に最も明瞭で、"The Swimmer"は小説の焦点がひたすら「今ここ」に集中し、最後になって急に主人公の過去が明らかになる(主人公が思い出す)という世にも奇妙な物語テイストな小説だし、"The Country Husband"でも、主人公と周囲の最大の違いは主人公だけ過去にこだわっているということである。この現象はおそらくアメリカ建国時にもあったはずでアメリカというのは何度もrenewalを繰り返す国なのだなあと思った。

ヒルビリー・エレジー  J.D.ヴァンス

アメリカ版しろばんば

 

アメリカの田舎は魔境である。かつてアメリカ南部の陰鬱な狂気を描いた「トゥルー・ディテクティブ」というすぐれたドラマがあったが、アリゾナ出身のアメリカ人の知人が「あれこそまさにアメリカ南部」と言っていた。

 

ヒルビリーとはアパラチア山脈近辺に住み着くド田舎の住人たちである。アメリカは広い上に各地域がほぼ独立した権限を持っているので、「隣は何をする人ぞ」の拡大版がよく起こる。ヒルビリーは独自の文化を持ち、そして貧しく、先の見えない人生を送る白人たちである。かれらのことは何度か映画化もされている。たぶん一番有名なのはジェニファー・ローレンスがその演技力を見せつけた「ウィンターズ・ボーン」だ。クリスチャン・ベール主演の「ファーナス/ 訣別の朝」にもヒルビリーたちが悪役として出てくる。(ヒルビリーを演じているウディ・ハレルソンがいつもの悪役っぷりで笑ってしまう)いずれにしてもヒルビリーたちの世界は映画の観客にとっては異界であり、そこの住人たちは得体の知れない人々である。

 

そんな魔界にうごめいているようなヒルビリーたちの間からなんとイェールのロースクールに入り、弁護士になった男がいた。それが本書の著者、J.D.ヴァンスである。まるで貧しい田舎町からNASAに勤める技師になった主人公を描く「遠い空の向こうに」みたいな話である。ヴァンスは謎に満ちたヒルビリーたちを、愛情と批判的視点相半ばする立場から描いていく。

 

いわく、ヒルビリーたちはある意味では社会的構造の犠牲者であって、先の見えない人生を強いられている哀れな人々であるが、その人生を作り出しているのは本人たちの責任でもある。かれらには責任感がなく、衝動的で暴力的である。しかしそれは育てられ方の問題でもあるので、かれらだけの責任ではない。そういったことをヒルビリー出身者にしか描けないようなエピソード満載で綴っていく。

 

ただしこのヴァンスさんは大変真面目な人らしく、文章は決して面白くない。やたらとすぐに社会学的分析が顔を出すし、物語の面白さのためなら真実を犠牲にするタイプの人ではないのは確かだ。

 

そんな中で一番面白いのは祖母の存在である。祖母はヒルビリーなのに熱心に孫を教育し、そして信心深いが決して福音主義的ではない。子供の頃の主人公は今では離れて暮らしている自分の父のもとで短期間過ごすが、そのときに父が信じている福音主義に染まっていったというエピソードがある。それによって心の安定を得たものの、多宗派や俗な文化に対して異様に攻撃的になった。それに対して祖母は同性愛に対しても寛容である。すぐに銃を持ち出して大騒ぎするような人間性なのだが、彼女のキリスト教は一人一人を祝福するためにあるのだ。こういう強烈な祖母の存在が本書に与えられた最も重要な彩である。まさに『しろばんば』。

 

だから祖母の死後、文章は強烈に推進力を失っていく。正直、消化試合みたいなものだ。というのも、たぶんヴァンスさん本人がそんなに魅力のある人ではないのだと思う。なにせ海兵隊ですべてを学んだと言ってしまう人である。それはヒルビリーの中で育ったせいでロクな教育を受けてこなかったせいでもあるのだけれど、海兵隊の教えることを自分の人格の基盤にする人間が面白い文章を書けるわけがない。前半はまったく正しく生きていない人たちの舞踏会みたいな話なのだけれど、後半では正しく生きるヴァンスさんが正しく生きるということはどういうことなのか、力こぶを作って語っているのであった。