『裸者と他者』で有名なノーマン・メイラーの小説。メイラーは『裸者と他者』のほかには『夜の軍隊』などのノン・フィクションで有名だがいくつかフィクションも書いていた。
主人公は第二次世界大戦でドイツ兵を殺したことがトラウマになっている元兵士で、政治家を経て大学教授をやっている。自殺願望を抱えるかれはデボラという妻とほとんどマゾヒスティックな関係を結んでおり、ある日それに耐えられなくなってデボラを殺してしまう。そしてルタというドイツ出身のメイドやシンディというマフィアの歌手兼愛人たちと奔放な性的関係を結びながら警察の追及から逃れる日々が始まる。
もともとメイラーはそういう感じだったが、1960年代の文学風潮を反映して、この小説も、長々として衒学的な記述、猥褻で露悪的な描写など『走れウサギ』などの小説との共通点を多く持つ。ヘンリー・ミラーとも似通っていると言えなくもないが、快楽の渦におぼれて、読者に理解可能な記述をしようという心持ちすらどこかにいってしまうミラーとは違って、メイラーはいたって真面目である。そもそも何かリジッドなものからはずれようはずれようとするミラーに対して、メイラーは実存主義作家らしく、一貫して人からすべてをはぎ取ったらそこに何が残るだろうという興味を保っているように見える。
この小説でも傑出しているのは終盤でデボラの父に呼び出された主人公が高層ビルの胸壁の上を歩くシーンである。生と死の間の細い隘路を歩く体験を再現したこのシーンは傑作『裸者と他者』の緊迫感に通ずるものがある。
警察に追われながらなんとか犯罪を糊塗しようとする犯罪小説的なプロットも小説にサスペンスをもたらしており、成功していると言えるだろう。
ただ、途中から急にピンチョンの小説のようになるのはなぜなのだろうか。デボラの父に呼び出されたあたりから話がおかしな方向に行き始める。デボラの父も、デボラもルタもスパイであるというようなことが示唆され、おまけにデボラの父とデボラの近親相姦的な関係まで無造作に投入される。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』が1966年なので1965年出版のこの小説の方がこういう偏執狂的な性向の描写を先取りしているのだが、あまり効果的とは言えない。
ぼくはメイラーはヒューマニストなのだと思う。『裸者と他者』での最も感動的なシーンはすべてをはぎ取られたあとに残る前に向かう意思の描写にあるし、『夜の軍隊』は、やはり力なき個人でありながら、大いなるアメリカの伝統を背に一歩前に踏み出す若者たちに関するノンフィクションだ。それゆえにポストモダン的なものとは食い合わせが悪いのだろうと思う。この小説の一番良いところはやはり、前述の通り、生と死の隘路を自らの意思で進んでいく主人公の贖罪にも似た思いであって、そういう意味ではシニカルなポストモダン作家たちとは対極の浪花節的な作家なのだと思う。