おいしいご飯が食べられますように  高瀬隼子

まず最初に書いておこう。これはぼくのための小説ではない。この小説に出てくる登場人物もテーマも描写も、すべてどうでもいい。明日この小説がこの世から消えても何とも思わない。しかし小説としては一流である。だから少しでもこの小説が心に響く人には名作になりうるだろう。

 

小説は全体としていかにも女性作家のものというような、意地悪で、自己肯定感も低めで、だけど自己愛だけは妙に高い人々が織りなす、そこまで起伏もなく、そしてそこはかとなく胸糞悪い物語である。

 

小説は、弱々しく仕事は満足にできないけれど、それがゆえにひいきされているように見える芦川さんとそれにいら立つ押尾という女性、芦川さんと付き合いつつ、彼女の食に対する興味を憎んでいる二谷の関係を中心に進む。この二谷が書き割りのような人物で、うまく描けていない上にかれと芦川さんが付き合っているというのが小説上の要請の域を出ていないのでここがこの小説の最大の弱点だろう。

 

一方でうまいのは、やはり「食」にまつわる認識のぶつかり合いである。二谷は腹が満たせればそれでいいのだと思っているが、かれのこの認識は文学部に進みたかったのに実利を重視して経済学部を選んでしまったというところからきている。就職してからは仕事仕事の毎日で、自分の時間などほとんどない。他方、芦川さんの食へのこだわりは、彼女がやたらと早退や欠勤を繰り返し、仕事で身をすり減らしていないところからくる(ように見えている)。つまり「食を楽しむ」ということは非常に文学的な行為で、とりもなおさずそれは社会で生きていくためにたいして必要ではない文化的な行為だということだ。こういうことに時間を費やしている芦川さんは仕事人間の二谷や押尾をいら立たせる。しかし最後には二人とも「食」というのは結局「自分固有のものだ」ということに気づく。だから「公」を優先することが第一だと思っていた二人は、「自分固有のもの」を最大限に尊重する芦川さんを嫌っていたのだ。

 

しかしそういう単純な二項対立で終わらないのがこの小説のいいところで、立ち止まって考えれば、芦川さんの食へのこだわりは結局のところ、その辺のグルメ番組のおいしいもの紹介につられて人気の店に食べに行くOLのそれと大差ない。そして彼女は自分で作ったお菓子をみんなに配ることで「おいしい」というリアクションを強要してもいる。つまりこうやって芦川さんは「自分固有」の食を消すようなこともやっているわけで、そこにジレンマがある。「この世にはご飯も食べられない人たちもいるのに」というような彼女のセリフもいかにも月並みである。

 

そしてそういうことすべてを考えた上で、感想としては「なんだこいつら」であった。たぶん二谷の人物描写にリアリティがないせいで概念先行の小説になっていていっそのこと男なんて嚙ませないほうがもっと良い小説になったのではないだろうか。

From Here to Eternity by James Jones

長い。とにかく長い。実に1000ページもある。そして1000ページ分の何かを得られるかというとそんなことはない。そのため効率を重視する人は読まない方がよい。そういう小説である。

 

本作は太平洋戦争についての「裸者と他者」に次ぐ有名なアメリカ小説であるが、ノーマン・メイラーの才能が二位以下を大きく引き離したらしく、ジェームズ・ジョーンズはだいぶ離れて息も絶え絶えにゴールしたような格好である。

かといってひどい小説ではない。それぞれのエピソードはよく書けていて小説としてある基準は軽々と越えていると思う。

 

それではなぜこんなことになっているのか。

 

ひとつは太平洋戦争についての小説であるにもかかわらず、ほとんど戦闘シーンが出てこないことである。それもそのはずこれはハワイに駐留するアメリカ軍の話で、900ページ目くらいにやっと真珠湾攻撃が出てくる。しかしそのあとはまたアメリカ兵士の話がダラダラと続く。

主人公は二等兵であるプルウィットと軍曹であるウォーデンの二人で、プルウィットは自分の自由のためなら何者にも従わないという男である。かれはボクサーとして優秀なのだが、ボクシングに入れ込んでいる部隊においてボクシングをすることを拒否する。そのせいでいじめが始まり、そしてさらに反抗することで営倉に入れられた後はそこの兵士たちと仲良くなり、しかし一人が上官のいびりで殺され、その復讐を遂げる。結局そのせいで軍から離れるハメになり、真珠湾攻撃のあとに軍に戻ろうとしたところで手違いで殺されてしまう。最後まで自分の自由に殉じたプルウィットに対し、なんでも器用にこなすウォーデンはしかしそんな自分を嫌っており、上官の妻と浮気している。これもウォーデンの破滅願望の表れだと思うが、彼女に勧められてウォーデンは毛嫌いしていた将官にしぶしぶなることを受け入れ、試験にも受かるが真珠湾攻撃のせいで彼女は本土に去ることになり、ウォーデンは将官になることを拒否する。

という戦争小説というより要は「パピヨン」とか「陸軍残酷物語」みたいな話である。そして人の自由とは何か、それを守り通すとは何か、ということへの考察に関しては「パピヨン」の方が数段上である。

たぶん「裸者と他者」のように実存主義的の影響があるのだけれど、「性」(50年代の小説はなんでやたらと露悪的に性を扱うのだろう)の問題ひとつ取っても単なる性欲の強さや性規範の攪乱など上っ面をなでているだけという印象がある。

またプルウィットとウォーデンはキャラがかなりかぶっている。二人の間に友情が、とか言われてもそりゃほとんど同じ人間なんだからそうでしょうね、としか言いようがない。プルウィットはひなびた炭鉱町出身で放浪の生活を送ってきたというかなり野卑な人間のはずなのだがあまりそれも感じられない。人物描写は全然うまくない。

だがここまではまだいい。あらすじは面白そうだ。だから映画化されたらアカデミー賞を総なめしたのだ。そう。2時間に凝縮されれば。

 

二つ目の致命的な問題はその長さの質の問題である。この小説はひとつひとつのシークエンスの間に「哲学的」思考がはさまるという形になっている。どこかで読んだ形式だと思っていたらやっぱり出てきたトマス・ウルフ。プルウィットはトマス・ウルフを熱心に読んでいるシーンが途中に出てくるのだが、作者の天分がトマス・ウルフと違いすぎたせいで、それなりによく書けている(それでも余計な描写が多すぎる)シークエンスの合間に誰でも思いつくような凡庸なアイデアがはさまり、それがただむやみに小説を長くしている。これはプルウィットと娼婦、ウォーデンとカレン(上官の妻)の描写のときに顕著で、戦争のことだけ書けよと何度思ったことだろうか。

 

三つ目は作者の考えの足りなさである。この小説は今だったらアカデミズムで集中砲火を浴びるだろうと思うのだが、そのくらいジェンダーやコロニアリズムの問題に無自覚である。プルウィットもウォーデンも気持ち悪いくらい常に女に飢えているのだが、かれらの女性に対する態度は自己中心的そのものである。プルウィットは自分の思い通りにならないという理由で最初に付き合っていた日本系のハワイ女性にひどい態度を取って振るし、娼婦にも反抗期の子供が母親にするような態度を取っているのに女性たちはみんなプルウィットに無条件に優しい。ウォーデンもカレンに対して自分の都合を押し付ける傾向が強く、しかもカレン以外の女性のことをほとんど物としか見ていない。

これはハワイに駐留するアメリカ軍と女性たちの力の不均衡から来ているのは明白だ。ハワイ在住の女性たちや娼婦などはアメリカ軍より弱い立場にあって、アメリカ兵士たちはそれを利用して、夫のいる女性と堂々と付き合ったりなど好き勝手している。アメリカ人娼婦やカレンなどアメリカ人相手にはある程度気を遣うものの、現地女性たちのことは尊重すべき人間と見ていない。

ということに作者が無自覚なのが最大の問題だ。作者はプルウィットやウォーデンの態度を好ましいものとずっと描いており、女性や現地の人々の苦難は眼中になく、アメリカ兵士たちの苦悩だけが問題であるという態度を取っている。たとえば終盤でウォーデンはおそらくプルウィットが死んだことで自暴自棄になり、中国人が経営する店を破壊するのだが、そのとき店を破壊された中国人の悲しみは小説としてはどうでもよく、ただひたすらウォーデンの「つらさ」が前景化される。

要はプルウィットもウォーデンもカレンもかれらの自由を希求していて、それを小説は素晴らしい姿勢として称揚しているのだが、その「自由」というものは征服者の自由であって、その陰でかれらの犠牲になっている者たちがいるということにまったく小説は無頓着なのである。

子供じゃないんだからそのくらいちゃんと考えろよというのがこの小説に対する最終的なコメントだろうか。

An American Dream by Norman Mailer

『裸者と他者』で有名なノーマン・メイラーの小説。メイラーは『裸者と他者』のほかには『夜の軍隊』などのノン・フィクションで有名だがいくつかフィクションも書いていた。

 

主人公は第二次世界大戦でドイツ兵を殺したことがトラウマになっている元兵士で、政治家を経て大学教授をやっている。自殺願望を抱えるかれはデボラという妻とほとんどマゾヒスティックな関係を結んでおり、ある日それに耐えられなくなってデボラを殺してしまう。そしてルタというドイツ出身のメイドやシンディというマフィアの歌手兼愛人たちと奔放な性的関係を結びながら警察の追及から逃れる日々が始まる。

 

もともとメイラーはそういう感じだったが、1960年代の文学風潮を反映して、この小説も、長々として衒学的な記述、猥褻で露悪的な描写など『走れウサギ』などの小説との共通点を多く持つ。ヘンリー・ミラーとも似通っていると言えなくもないが、快楽の渦におぼれて、読者に理解可能な記述をしようという心持ちすらどこかにいってしまうミラーとは違って、メイラーはいたって真面目である。そもそも何かリジッドなものからはずれようはずれようとするミラーに対して、メイラーは実存主義作家らしく、一貫して人からすべてをはぎ取ったらそこに何が残るだろうという興味を保っているように見える。

 

この小説でも傑出しているのは終盤でデボラの父に呼び出された主人公が高層ビルの胸壁の上を歩くシーンである。生と死の間の細い隘路を歩く体験を再現したこのシーンは傑作『裸者と他者』の緊迫感に通ずるものがある。

警察に追われながらなんとか犯罪を糊塗しようとする犯罪小説的なプロットも小説にサスペンスをもたらしており、成功していると言えるだろう。

 

ただ、途中から急にピンチョンの小説のようになるのはなぜなのだろうか。デボラの父に呼び出されたあたりから話がおかしな方向に行き始める。デボラの父も、デボラもルタもスパイであるというようなことが示唆され、おまけにデボラの父とデボラの近親相姦的な関係まで無造作に投入される。ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』が1966年なので1965年出版のこの小説の方がこういう偏執狂的な性向の描写を先取りしているのだが、あまり効果的とは言えない。

 

ぼくはメイラーはヒューマニストなのだと思う。『裸者と他者』での最も感動的なシーンはすべてをはぎ取られたあとに残る前に向かう意思の描写にあるし、『夜の軍隊』は、やはり力なき個人でありながら、大いなるアメリカの伝統を背に一歩前に踏み出す若者たちに関するノンフィクションだ。それゆえにポストモダン的なものとは食い合わせが悪いのだろうと思う。この小説の一番良いところはやはり、前述の通り、生と死の隘路を自らの意思で進んでいく主人公の贖罪にも似た思いであって、そういう意味ではシニカルなポストモダン作家たちとは対極の浪花節的な作家なのだと思う。

実力も運のうち 能力主義は正義か?  マイケル・サンデル

「ハーバード白熱教室」でおなじみのマイケル・サンデルが能力主義をこれでもかと批判している本だが、タイトルがそのまま要約になっている。要は高収入を得ている人たちは単に彼らのスキルがその時代にたまたま評価されるものであり、たまたまそういうスキルを身に着けられる環境にあり、たまたまそういうスキルを身に着けうる能力を持って生まれてきただけである。だから報酬などというものは恣意的なものであり、それを鼻にかけるなどということはあってはならないのである、ということだ。

 

サンデルは能力主義がいかにして社会にはびこるようになったかを歴史をたどって述べていく。驚くべきことに1960年代くらいまでは社会は能力主義を重んじてはいなかった。高卒でも政治家になっていたしハーバード大学の倍率も高くなかった。大卒の価値もそれほどなかった。しかしレーガンやサッチャーなど新自由主義の信奉者たちの登場とともに能力があるものたちは高い報酬に値して、しかもそれは彼らの道徳的な価値も保証するという考え方が出てくる。こうした考え方を後に続くクリントンやオバマといった民主党の大統領たちは否定するどころか後押ししてきた。それがトランプ大統領の誕生につながった、とサンデルは指摘する。

 

サンデルが重視するのは、能力主義が生み出す格差による感情の問題である。能力を持つ者はより高慢になり、ない者は傷つき、自責の念にかられる日々を送ることになる。サンデルは貴族社会を思い浮かべろと言う。誰が貴族で誰が平民かは生まれたときに決まっている。そこに能力の介在する余地はない。だから、貴族社会で平民でも別に人は傷つかない。たまたま自分は平民でたまたまあいつは貴族だ、ということになる。しかし能力主義においては誰かが社会的に恵まれない立場にいて見下されているのは自己責任だということになるのだ。

 

こういった問題に対処するためにサンデルが提案するのが、それぞれの報酬と道徳的な貢献を切り離すということである。つまり、高い報酬を得ている人間が道徳的に優れているというわけではないし、逆もまた真実だ。サンデルが理想とする社会は、それぞれが己の能力に適した仕事をしつつ、お互いに敬意を持ち対話を欠かさない社会である。我々は常に共同体の中の一員であり、共同体を維持するすべての人々の貢献を意識して生きていくことが重要なのだ。

 

と言ってもこういった社会をどのように実現していくのかについてサンデルは口ごもる。ただ、それが究極の民主主義的な社会であろうということは想像がつく。共同体のすべての構成員が知と他者に対する敬意を持ち(そもそも知性がないと誰かに対する敬意とか対話とかが成り立たない)自らを涵養するために学びを欠かさない社会-それは理想論にすぎないのかもしれないが何も生産しない金融業界だけが儲けて社会を支配していこうとするテクノ封建主義の社会よりははるかに人間的ではるかに道徳的である。

イエロー・バード  ケヴィン・パワーズ

イラク戦争についての優れた小説なのだけれどティム・オブライエンやトバイアス・ウルフを期待して読んでいると途中でえっ?となる。

 

小説は戦争から帰還中~期間後の主人公とイラク戦争に従軍中の主人公の二つの時間軸を行ったり来たりしながら進んでいく。従軍中の心理や戦後のPTSDなど巧みに描かれているが、何よりの特徴は頻繁に生硬でやや哲学的な省察がはさみこまれることだろう。主人公は戦争での経験をバラバラの裏になったジグソーパズルのようなものにたとえている。それぞれには意味があるのかないのかわからないが、いずれにしてもそれらを組み合わせて全体としてひとつの大きな意味にすることはできない。それが、主人公の省察の一貫した基礎となっている。

 

そしてこうした省察がはさみこまれることによって、常に起きたこと(そしてそれを回想して今書いているもの)の意味を探り続け、そしてそれに失敗し続けている男の姿が浮かび上がってくる。「裸者と他者」のノーマン・メイラーは、実存主義的な立場から、戦争の意味のなさを突き詰めたところになんらかの人間的真実が見えるのではないかと考えた。ティム・オブライエンは戦争の意味のなさ、解釈の不可能性を逆手にとって、戦争を物語るという行為を問い直した。トバイアス・ウルフは基本的にパワーズと同じ立場を取りながら実に巧みにベトナムでの体験を再構成しウェルメードな小説にまとめた。フィル・クレイに解釈などない。かれは何が起こっているのかもわからずにただ傷つきあがく人々の姿を描いた。そういう観点からするとこの小説は意味などないところに意味を求めて傷つくというカミュの言う不条理を背負った主人公の姿を提示していると言える。

 

ただこの小説は途中から急にミステリ仕立てになってくる。かなり早い段階からマーフという主人公の親友がイラクで戦死したことは明かされているのだが、現在の主人公がイラクでなんらかの犯罪を犯したことが示唆され、軍曹で主人公とマーフの理解者であったスターリングが自殺したことも明かされるにいたっていったいイラクで何が起こったのかという謎が小説の後半を牽引することになる。

 

結局は「カチアートを追跡して」のもっと救いのないバージョンのような終わり方をするのだがこの救いのなさこそがベトナムと違ったイラクの現実ということなのだろう。そしてまた途中まで実際にイラク戦争に従軍した作家の心の傷を投影した小説だと思っていたらなんだかうまいことミステリに落とし込まれてちょっと鼻白んでしまうあたりがこの小説の弱点なのかもしれないとも思った。

Point Omega by Don DeLillo

戦争についての小説ということで読んだのだが、まったくの期待外れだった。というより、ドン・デリーロの小説はそもそも「語るべき本質など何もない世界でそれでも何か真実のようなものを探してしまう人びとの苦悩」を毎回、金太郎飴のように描いているので戦争について何か知見を得ようとして読むこと自体が間違いだった。登場人物の中の一人である老人がその昔に戦争(たぶんイラク戦争)の作戦立案室かどこかに参加していて、その話はいっさいしない、という道具立てに戦争が使われているだけだった。なんだそりゃ。

 

ドン・デリーロの小説を読むたびに思うのだが、かれの小説の登場人物はみんな過度に感受性が豊かで、過度に知的で、過度にコミュニケーション障害を抱えている。そして全員現実から遊離している。主人公はイラク戦争にインテリジェンスとして参加していた老人がただひたすら自分の考えを語るという長回しのドキュメンタリー映画を撮ろうと、老人の住む砂漠の一軒家に一緒に住み込み、ひたすら説得を続ける間に当初の目的を忘れて奇妙な同居生活を始める。この感じは「ジェネレーションX」に似ていなくもないが、あちらは「いかに生きるべきか」が主眼なのに対して、こちらはそんなことはまったく考えていない。そもそも途中からやってくる老人の娘も含めて、いったいどうやって口に糊しているのかまったく定かではないのだが、そんなことは小説中では問題にならない。ただひたすらドン・デリーロの脳内にいる半人間みたいな人たちが哲学的な問いを発しながらお互いの顔色をうかがって結局何もしないという物語以前の何かを見せられる。

 

もちろんポストモダン以降の小説は物語構築に対して意識的にならざるをえないのはわかる。だが人ってこんな風に生きているだろうか。こんな繊細さ合戦みたいなことをやっている人たちがどれだけいるのだろう。そして小説の手触りがあまりにMaoIIに酷似している。違う色合いで同じ絵を複製したアンディー・ウォーホルのマリリン・モンローの絵じゃないんだから名前だけ違って同じことを言っている登場人物を量産するのは勘弁してほしい。現実にいる人間を描けるという確信自体がポストモダンで疑問視されているどうのこうのを言うのなら作家をやめてほしい。現実にいそうもない人たちばかりが出てくるけれど読者を引き込む作家はたくさんいる。

 

ひたすら遅回しの「サイコ」に見入っている男など、興味深いシーンは結構ある。しかし小説全体としてはいつかどこかで読んだ小説という域を出ない。

戦後フランス思想 サルトル、カミュからバタイユまで  伊藤直

サルトル、カミュ、ボーヴォワール、メルロ・ポンティ、バタイユといった実存主義作家たちについての実にわかりやすくまとめられた案内書。それぞれの作家たちの主要な思想と、かれらの間の論争、そして構造主義の登場によって実存主義が論壇の端に追いやられていくまでの経緯について平易な言葉で語っている。

 

やはり実存主義は魅力的だ。構造主義やポスト構造主義といった「主体」「自我」といったものの解体を嬉々として行う哲学は、説得力はあっても魅力に乏しい。それは文学においてはなおさらだ。文学とは結局「私がどう感じたか」をその基底に持つテキストだ。いろいろな形がありえたとしても、やはり読者の「私」に衝撃を与えない文学はいずれ研究者以外には読まれなくなる。あれだけ隆盛したポストモダン小説に今や誰も一顧だにくれないばかりか、そんなものはなかったかのような小説がまたもや読まれるようになっているのはそういうことなのだろう。

 

個人的にはカミュについて知りたくて本書を読んだのだが、やはりカミュのスタンスが最も納得がいくように思えた。サルトルの「実存は本質に先立つ」はその通りだと思うし、「投企」という考え方は大変にポジティブだと思うのだけれど、やはりカミュのような、「死」を見据えた上での「この世のわからなさと理由を求めてしまう人間の感覚の齟齬=不条理」を知覚した上で、人は自殺せずに不条理と向き合っていかねばならない、という考え方の方が実感に即しているように思える。また、投企は結局未来から自分を規定することになって、それは自由を求める実存主義と反しているだろう、というバタイユの批判は非常に有効だと思う。バタイユのヘンリー・ミラーのような現在に耽溺する享楽主義もどうかと思うのだけれど、死すら眼中に入れずに明晰な自我による投企によってひたすら未来が広がっていくというサルトルの理論はやや単純な気がした。

 

結局のところ、サルトルの「単純さ」は西洋的な自我を基本にしているからなのだろう。ただその思想が生きる上で構造主義やポスト構造主義よりはるかに指針となりうる、いわゆる「生きた思想」であることは疑いがないと思う。