The Adventures of Tom Sawyer    Mark Twain

 アメリカ文学史上数少ない陽キャ主人公のベストセラー児童文学である。文学には陽キャの主人公は非常に少ない。考えてみるまでもなく、陽キャに文学は必要ないからである。だからこの小説も、昔は自分もこんな感じだったなあ、と多くの読者のノスタルジーを刺激する、なんて評されているが疑わしいものである。トム・ソーヤーが大人になったらまず間違いなく小説なんて読まないからである。

 

 だからこの小説はつねに瀬戸際スレスレを行っている。トム・ソーヤーはその辺にいるガキ大将そのもので、そのガキ大将が町からやってきたかわいい女の子に惚れて、そのうちにインジャン・ジョーという悪党との争いに巻き込まれ、最終的に女の子も宝物もゲットするという、マーク・トウェインの語り口の上手さがなければ陳腐そのものの物語であっただろう。なぜこの小説が、こんなにどこかで見たような話でありながら面白いのか、というのは非常に興味深い。

 

 その理由のひとつは、おそらく悪役インジャン・ジョーとかれと同じく社会からのはぐれ者であるハックルベリー・フィンの存在である。ピーターパンと同じく、トム・ソーヤーはたいして語るべき内面を持たない。(ピーターの方は相当変なのでトムよりは小説の登場人物として興味深いが)かれらは内面にたいした葛藤を持たないので、かれらだけで物語を推進していくことができない。特に「グッド・バッド・ボーイ」であるトムは絶対に社会の規範からははずれないので、トムの小説を丹念に書いたら、まことに面白くもない活発な少年の話ができあがりそうである。下手をすると『ボロ着のディック』みたいな話になりそうである。

 

 しかしインディアンとの混血であるインジャン・ジョーと家庭を持たない浮浪児であるハックルベリー・フィンは明らかに異質であり、物語に動揺をもたらす。インジャン・ジョーは最初は単なる悪役に見えるが、大人の読者からすると、かれの人種的な問題がかれの境遇につながっていることが透けて見えて、だんだん立体的な性格を持つ人物に見えてくる。ことにかれの最期は壮絶である。洞窟に閉じ込められて必死に外に出ようとして死んでいるのを発見されるのだが、それはまるで自由を求めて戦って力尽きた混血児の社会闘争の趣を呈しているように見える。

 

 ハックルベリー・フィンに関しては言うまでもないだろう。家庭も持たず、あらゆる社会的なしがらみから自由なかれは、アメリカ文学における無垢―アメリカン・アダムの系譜に連なり、アメリカ文学の始祖とヘミングウェイが評した『ハックルベリー・フィンの冒険』で主役を務めることになる。この小説でもトムの行動は往々にして鼻につくが、ハックを嫌いな読者は一人もいないだろう。

 

同じように社会からはずれたハックルベリー・フィンとインジャン・ジョーだが、おそらくハックは大人になっても後者のようにはならない。なぜならハックはホイットマンやソローの子孫だからである。人種の問題というより自然への愛着の問題である。

 

トム・ソーヤーの冒険』についての話なのに、いつの間にかハックについての話になってしまった。『ハックルベリー・フィンの冒険』は文学的に『トム・ソーヤーの冒険』とは比べ物にならないくらいの評価を得ているがやはりそういうことなのだろう。