時間の歴史  ジャック・アタリ

主に時計の歴史をたどりながら、時間というものがいかに権力と結びつき、社会を支配してきたかを解き明かしたジャック・アタリの優れた論考。

 

アタリは時間の歴史を「神の時間→身体の時間→機械の時間」とあらわす。

神の時間とは時間がまだ神に属すると考えられていたころの時間観である。古代においては時間は反復するものであったが、そのままでは衰退していってしまう。そこで暴力を解放する場=儀式が用意され、それにより時は再生され、また新しい時間が流れていく。中世においても最も神に近い存在である教会が時間を管理し、修道士たちもその「神の時間」に厳格に従った。

 

ところが商人たちが力を持っていくにつれて時間は世俗化を始める。身体の時間の到来である。人はもはや時間の中に閉じ込められず、ひたすらにさまようようになる。

 

この「身体の時間」はある意味では呪いなのだと思う。時間が自分のあずかり知らない者に管理され、それに従っていく、つまり動物的に時間をとらえているうちは知ることのなかった感情に人はつきまとわれることになるからだ。つまり、時の流れであるとか人の命の有限性であるとか、そういうことがかつてない迫力で人に迫ってくるようになる。人はそれを己の責任の範囲内で処理しなければならない。

 

このあと、時計産業の発達により、正確な懐中時計が誕生する。これとともに「機械の時間」が到来する。「時は金なり」となり、人はひとつの機械となって、速く正確であることを求められるようになる。テイラーイズムやフォーディズムの誕生もむべなるかな、と言えるだろう。

 

最終章にいたってアタリの論考は難易度を増してくる。かれが現代の時間観として提唱するのが「コードの時」である。各種技術が発達した現代においては必ずしも時間の流れの一方向性を前提とした技術ばかりではなくなった。(ビデオなど)こうした時代においては、過去と未来を分けるのは「知っているか」「知らないか」である。知っているものは過去であり知らないものは未来に属する。そしてさまざまな技術の周りにこのようなコードが散りばめられ、個々人はいたるところで時の流れの乱気流を経験する。そうした技術にへばりつくように、あるいは支配されるようにして生み出されるわれわれの時間経験の外に出て、新たな時を創造しなくてはならないというアタリの訴えとともに本は締めくくられる。