七破風の屋敷  ナサニエル・ホーソーン

 アメリカ・ルネサンスの大家、ナサニエル・ホーソーンの長編小説だが、『ブライズデール・ロマンス』よりはるかに面白かった。

 

 野心に燃えるピンチョン大佐は魔女狩りにかこつけて前々から狙っていた七破風の屋敷の住人を処刑し、それを手に入れる。それから時が下り、零落していたピンチョン家はいまだに屋敷に住み続けていた。呪われた屋敷に住む年老いたヘプジバー婆さんと、無実の罪を着せられ投獄されたショックでほとんど子供がそのまま老人になったような兄クリフォードの身に呪いとしか言いようのない運命が降りかかる、というゴシック小説のような話なのだが、ここにホーソーンの小説ではおなじみの、理論家の若者(ホールグレイヴ)と無垢な少女(フィービー)が配役され、ミステリー小説のような趣も見せながら話が展開していく。

 

 途中までは、生活費を稼ぐために慣れない商売を始めたヘプジバーの奮闘や、そこにやって来たフィービーがいかに屋敷での生活を明るくしたか、クリフォードの過去にいったい何があったのか、などという話で引っ張っていくのだが、終盤の展開がとんでもない。屋敷にやって来たピンチョン判事(クリフォードを陥れた張本人)が屋敷で死に、それを見てパニックになった兄妹は逃亡し、そしてそのすぐあとに故郷に戻っていたフィービーが帰ってくる。ここからが空前絶後の展開である。なぜかホールグレイヴとフィービーはピンチョン判事の死体のそばで恋に落ち、その瞬間に2人は楽園に入るという描写がされる。

 

 その前までピンチョン判事の死体がまったく動かないまま時だけが経っていくという描写が延々とあり、それが終わると今度はまったく変化のない屋敷を背景に時が経っていくという描写がまた延々と続く。その後に来るのがホールグレイヴとフィービーのエピソードである。要はこの瞬間に2人は時を超越して人間的な時間のない世界に入っていくということである。

 

 訳者の青山義孝氏(大変読みやすい素晴らしい翻訳だった)はこれをアポカリプスを経て、時計の時間が世界の時間(神の時間)に変わっていく様を表していると解説している。それはそれで納得のいく論なのだが、それにしても死体のそばで築かれる楽園とはいったいなんなのだろう。

 

 この後、逃亡していたヘプジバーとクリフォードは帰ってきて、ピンチョン判事の死とともにかれの財産を受け継ぎ、みんな楽しく暮らしましたとさという大変に雑なハッピーエンドにつながるのだが、全然ハッピーエンドに感じられない。というのは、ホールグレイヴは催眠術に長けていたモール家の末裔であり、かれが催眠術のような力でフィービーを誘惑したというようなことが書かれている。フィービーは催眠術によって不幸になったアリス・ピンチョンの再来のようにも見えて、本当にハッピーになれるのだろうかという点について大きな疑問符がつく。

 

 この小説は、過去(家系)とは呪いである、という思想に基づいているのだが、最終的にその家系がもたらした財産を受け継ぐことでみんなが幸せになるというのは、やはりそこに崩壊の兆しを胚胎しているとしか考えられない。死体のそばで得る楽園というのはやはりそういうことを示唆しているのだろう。