There's Something I Want You to Do / Charles Baxter

 非常に質の高い短編集。著者のチャールズ・バクスターは日本語のウィキペディアがないレベルの知名度だが、英語版を調べてびっくり、留学先の大学で教えていた人だった。

 

 バクスターミニマリズムの作家と称されることが多く、実際、この短編集のタイトルの付け方とかそれぞれの短編の短いタイトル、身の回りに起きるふとしたことから小説を組み立てていくやり方などはミニマリズムのそれである。

 今作はミネソタ州ミネアポリスの住人たちの日常を連作的に描いていて、だからある短編の主人公になっている人物がほかの短編では脇役として出てきたりする。個人的にはあまりこういう形式は好きではないのだが、表面上は地方都市で楽しく暮らしているように見える人々の心の闇を探っていくというやり方は、同じく地方都市の人々の心中を描き出した「ワインズバーグ・オハイオ」を思わせる。だがここに出てくる人々は「ワインズバーグ・オハイオ」の登場人物たちよりずっと壊れている。

 

 ミニマリズムで最も有名な作家であるレイモンド・カーヴァーの作品に出てくる人たちは、最初から壊れていることが多い。常識と当たり前の自我を持った人々の交流がきちんとした「小説」を形作るとすれば、カーヴァー作品は非常にアメリカ的な、反「小説」と言ってもいいようなものである。バクスターの短編も同様だ。出てくる人たちはだいたいみんなどこか壊れていて、しかしそれはリアリティを失うような壊れ方ではない。壊れている人たちが日常の文脈に回収されていって、そしてそこでなんとか日常を生きていくというところにバクスター作品特有の感動がある。カーヴァーの"Preservation"のようにずっと壊れっぱなしということはない。バクスター作品の登場人物たちはブルーカラー労働者を描いたカーヴァー作品と違って中流以上の人々ということもあるのかもしれない。

 

 もうひとつ気になったのは、短編小説のあり方だ。ミニマリズムの作家たちは、カーヴァーにしろ、アン・ビーティ―にしろ、「ここが読みどころだ」という点が明確だった。それはバクスターも同じだ。しかしグレイス・ペイリーデニス・ジョンソンなどはどこが読みどころなのかさっぱりわからない。中心点を失ったような短編なのに、いくつか読んでいくうちに不思議と心に沸き立つものがある。

 バクスターの短編はアメリカ短編小説のひとつの頂点を成していると思えるけれど、まだ違うあり方がアメリカ短編小説において挑戦され続けているのだと思う。