Tropic of Capricorn by Henry Miller

このヘンリー・ミラーには我慢できないことが一つある。それは流されるままに生活することだ!!

 

1920年代はまさにハイモダニズムの時代だった。フィッツジェラルドヘミングウェイ、フォークナー。綺羅星のごとく現れた才能たちは、人一倍小説の構成というものに敏感だった。ヘミングウェイの氷山の一角理論や、フォークナーの『死の床に横たわりて』などの実験を見ればそれがよくわかる。そしてフォークナーの実に見事な『響きと怒り』で1920年代が締めくくられて、やって来たのが無法の1930年だった。

 

典型的な1930年代作家はトマス・ウルフだろう。ひたすらに自分のことを書きまくるスタイルの彼は、構成なんてどうでも良かった。統一感なんてゼロのボリューム過多の作品は、しばしば批評家たちの攻撃の的になった。ヘンリー・ミラーも、自らのことを必要以上のボリュームで語りまくるという意味では、トマス・ウルフに酷似している。しかし、ウルフがあくまでも常識の範囲内で、なんなら読者の読みやすさを考えて小説を書いているのに対して、ミラーはそんなことは考えない。かれは、卑猥、猥雑、涜神的、コンプライアンスなんてまったく考えない汚言をまきちらす。現実に即した描写が続いたあとに自らの詠嘆や夢想パートに移行するのもウルフと同じだが、大変にわかりやすいウルフに比べて、ミラーの場合は往々にして何を言いたいのかわからなくなる。というのは、ミラーは現代社会を越えた新しい状態、言葉を探し求めているからで、それはこれまでにないコンセプトをなんとか説明しようとする哲学者の営為に似ているからだ。

 

ミラーがとにかく嫌うのは、"automated life"である。ほとんどの人は工場のラインに乗っかっている製品みたいに、自動化された人生にただ乗っかり、そして終点の死を迎える。ミラーはこれを打ち砕き、それを乗り越えた何かを手に入れたいと思っている理想家である。だからミラーは普通に大人になって普通に生きていくことを否定し、自分は時をさかのぼり、どんどん子供になっていきたいなんてことを言う。過激派になったホールデン・コールフィールドみたいなヤツである。そうやってミラーはわれわれが当たり前のように甘受している現代社会のあれやこれやの常識を破壊していく。かれにとっては汚いものもきれいなものと同じような価値があり、さまざまな境界は乗り越えられ、合一されていくべきなのだ。というか、かれはアイデンティティすら否定する。一人の人間がAでありかつBであるという状態がかれの理想であり、言ってることがよくわからなくなる一因は間違いなくこれである。

 

時間という観点で言うと、ベルグソンへの言及があるのは興味深い。直線的な時間に従って生きていくことへの嫌悪は明らかにベルグソンとの親和性があるし、そういう意味ではミラーもハイモダニズム以降のベルグソン的実験を行った一派に連なると言えるだろう。

 

いろんなものを統合したいという欲望を見せるミラーだが、その統合の象徴となるのが性的接触である。この小説に出てくる性行為は言ってみれば、すべてなにかほかのもののパラフレーズである。たぶん女性は女性ですらない。女性の身体をした何かなのであり、やたらと「子宮」を強調するのもそういうことだろう。どこの誰が女性の子宮に欲情するだろうか。こうした統合によってエリオットの言うところの荒涼とした現代社会を乗り越えていくのがミラーの試みとひとまずは言えるだろうが、実はこの小説で最も素晴らしいのはcodaだったりする。初めての彼女にスミレをプレゼントして一緒に映画に行ったら、自分のヘマで彼女のスミレが落ちてそれを踏んでしまった。「もういい」と言うミラーの前で彼女は笑顔でスミレを拾い上げ自分の髪に刺すというエピソードなど、それまでの乱痴気騒ぎがウソのような胸を打つ描写が続く。こういうメタルと歌謡曲の融合のような不思議な曲調から、女性(=女神)への切々としたゴスペルへと続き小説は終わる。怪作というほかない。