サバービアの憂鬱  大場正明

50年代アメリカでやにわに発達してきた「郊外」についてさまざまな映画や小説を通して論じた一冊。

 

結論から言うと全体として学部生の卒論レベルの議論だった。いろいろな映画や小説を紹介しているのはいいのだが、それだけで、そこから一向に話が深まらない。というか50年代に勃興した「郊外」という現象ですべてを斬ろうとしているので、話が雑で、平板になっていくのだ。だから50年代「郊外」についての論は面白い。しかしそこからその図式のみを使って60年代以降も論じていこうとするのはさすがに無理がある。それぞれの時代の現象は、もっと複雑な要素の組み合わせの結果であって、それらについてこれも「郊外」あれも「郊外」ということにいったいどれほどの意味があるのだろうか。

 

筆者は映画評論家であるので、映画についての議論はそこそこに興味深い。(それでも旧来の日本映画評論家たちの感想文の域は出ない)しかし文学作品についての議論はもはや壊滅的である。それでもチーヴァーなど50年代作家についての分析は納得できるのだけれど、それ以降の作家たちについてはまたもや単なる感想文である。カーヴァーやバーセルミを「郊外」という一点でのみ分析するのはいくらなんでもありえない。全体的に、なぜそれらの作品が面白いのか、という点ではなくて、なぜ自分がそれらの作品を面白いと思うのか、という点でのみ論じられているので、ただの感想文になってしまっているのだ。これはたとえばフェミニズムの批評家などが陥りがちな過ちで、文学作品としてはちっとも面白くないものを、これは女性が男性に勝つ作品だから素晴らしいなどと評したりする。それは文学批評ではない。単なる自分の趣向の表明である。

 

この本で読む価値があるのは前半3分の1だけである。50年代郊外がどのようにして興り、それはどういった世界であったか、ということについての論はよくまとまっている。個人的に最も興味を惹かれたのは、郊外というものが都市から逃れた人々によって作られ、それゆえ過去を持たずまったく新しい現象として現れたということである。だから郊外には「今ここ」の意識が強くある。というか過去がない。これはチーヴァーの小説に最も明瞭で、"The Swimmer"は小説の焦点がひたすら「今ここ」に集中し、最後になって急に主人公の過去が明らかになる(主人公が思い出す)という世にも奇妙な物語テイストな小説だし、"The Country Husband"でも、主人公と周囲の最大の違いは主人公だけ過去にこだわっているということである。この現象はおそらくアメリカ建国時にもあったはずでアメリカというのは何度もrenewalを繰り返す国なのだなあと思った。