Life on the Mississippi (ミシシッピ河での生活) Mark Twain

マーク・トウェインは『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』で有名な19世紀後半に活躍した作家だが、決して子供向け作家ではない。そもそも『ハックルベリー・フィンの冒険』は児童文学のように見えるけれど、その実、非常に文学的に豊かな作品で、アメリカ文学ベスト100のような企画を行ったら間違いなく10位以内に入るだろう作品である。

 

マーク・トウェインの特徴は、おそらくかれの「子供性」だ。マーク・トウェインが精神的に未熟だと言っているのではない。しかし、かれがデビューしたのはトール・テール(当時アメリカ西部で流行していたウソかホントかわからないようなユーモラスな話)の名手としてだし、当時のアメリカ社会の浮かれっぷりやヨーロッパの退廃っぷりを指弾したエッセイ(『金ぴか時代』『地中海遊覧記』)を矢継ぎ早に書いている。そうした子供の無垢な目を持っていたからこそ、トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンといった子供たちを共感を持って描けたわけで、社会の虚飾を浮き彫りにするハックが生み出されたのだ。

 

ミシシッピ河での生活』もそんなノリの先にあるエッセイだ。トウェインは作家になる前、さまざまな職を転々としていたのだが、そんな職のひとつに蒸気船のパイロットがあった。当時は現代の最新航海機器などないので、パイロットたちは広大なミシシッピ河のどこに流木があり、どこの水深が浅いのか、といったことをすべて記憶していなければならなかった。おまけにミシシッピ河は生き物のように流域が変わり、新たな砂洲を生み出し、そのたびにまた諸々のことを記憶し直す必要がある。とんでもなくブラックな仕事なのだが、その分羽振りは良く、あこがれの的であったとトウェインは言う。しかしそんな蒸気船のパイロットたちも、鉄道に仕事を奪われ、ひとつの時代が終わっていく。そして数十年が経ち、今や有名作家となったトウェインがミシシッピ河を蒸気船に乗って旅するというのがこの旅行記の趣旨だ。筆致はユーモラスでところどころニヤリとさせられる。「マーク・トウェイン号」という蒸気船が走っていたのを目撃してトウェインが仰天するエピソードがあるが、ディズニーランドの「マーク・トウェイン号」を見たら、トウェインは何と言うのだろうか。

 

エッセイは基本的にはユーモラスなエピソードの集積である。それはトウェイン自身の体験であったり、聞きかじった話であったりするのだが、ホントかいなと言いたくなるような話がこれでもかと詰めこまれている。しかしそんなユーモラスな話の中に、蒸気船事故の悲惨なエピソードなど、現場を知っている人間ならではのリアルな迫力のある描写が混じっている。

 

このエッセイで個人的に特徴的だと思ったのは二つの点だ。

 

ひとつはウォルター・スコットへの熱い敵視である。ウォルター・スコットは騎士道物語を書いた作家として有名だが、トウェインのスコット批判はとどまるところを知らない。いわく、スコットのせいでアメリカ南部のものの考え方が退化した、南部人はいまだにスコットのロマンティックな価値観に従っているとのことだが、これは『アーサー王コネチカットヤンキー』にも書き込まれている考えだ。『アーサー王コネチカットヤンキー』はまさにスコット的世界をさんざんバカにするのだが、しかし一方で現代的戦争への残酷さへの批判的な視線もある。

 

二つ目はノスタルジーの薄さだ。自らが若いころを過ごした地域を、自らが若いころに乗り込んでいた蒸気船を使って訪ねるのだが、そこまで戻ってこない過去への慨嘆は見られない。割とあっけらかんとしているのである。時とともに社会は進歩し、人間性も発展していく、という進歩主義の考え方をトウェインが取っていたということだろうか。