Invisible Man (透明人間) by Ralph Ellison

アメリ黒人文学の古典である本作だが、まず何よりストーリーが面白い。現代黒人文学に付き物の観念的な思索などはなく、ド直球の波乱万丈ストーリーが繰り広げられる。深刻に、そしてとんでもない迫力で黒人たちの窮状を訴えるリチャード・ライト小説とはある意味対極にある小説だ。

 

言ってみれば、この小説は黒人版「ハックルベリー・フィンの冒険」である。ハックは自分というものをしっかりと持たず、いろんなコミュニティでいろんな騒動に巻き込まれ、その時々に応じてさまざまな社会的役割を装い、そしてすぐにミシシッピ河へと戻っていく。ミシシッピ河に浮かぶいかだの上でも、ハックは確固とした自分を持っているわけではなく、しかしだからこそ奴隷のジムを助けようという、当時の社会の規律に反したような考えにたどり着くことができる。

 

この小説の主人公も、いろいろなコミュニティによって"define"されてきた存在である。大学に行けば優等生として扱われ、北部に行ってBrotherhoodに所属すればそこのbrotherとして扱われる。そういう社会的アイデンティティを主人公は自分そのものだと思って生きてきた。ところが、主人公にそういうアイデンティティを与える人間たちはその実腐りきっていて、平気で主人公を裏切る。しかも、そこには一人の人間を「人間」ではなく「黒人」として定義してしまうような欺瞞もある。主人公はそういうシステムにうんざりして、「定義されることから逃れる=透明人間になる」ことを決める。

 

ここには「自由になること」「真の自己を探すこと」といった、アメリカ文学に通底するテーマがある。そういう意味では、この小説はアメリカ文学の伝統に沿った、実にアメリカ文学らしい構造を持っている。

 

ただし、システムから逃れて真の己にたどり着く、というのは少し考えればわかる通り、はなはだ疑問が多い理屈である。なぜなら普通は他者からの承認がないアイデンティティの形成など考えられないからだ。それゆえ、社会から逃れ、地下で暮らす主人公の自我は不確かである。かれは自分がどう考えるかではなく、誰が自分を通して物を見るか、という言い方をする。そこに確固とした「自己」はない。

 

この主人公の姿は、その後現在に至るアイデンティティ・ポリティクスの困難を予兆しているだろう。アイデンティティ・ポリティクスに拘泥すればするほど分断は進み、かといってそれを手放せば問題を等閑視することになる。自己が多分に社会的な自己である限り、それは必然的に社会的な問題も引き寄せてしまう。

 

という頭でっかちな議論は別として、結局のところ、読者の胸に温かく響くのは、ほとんど自己犠牲的に主人公を思いやる黒人老婆Maryの言葉なのだ。こういう黒人同士の友愛的な声やそれに伴う情愛の大事さを、たとえばボールドウィンなどは強調していくことになる。リチャード・ライトみたいにいきり立って黒人の権利を主張するのもいいのだけれど、そういう男性的な怒りが往々にして見逃すひそかな声の大事さも、この小説はすくい取っている気がした。