Mao II (マオ II)  by Don Dellilo

タイトルの「マオII」は、いろんな色合いの複製の毛沢東肖像画を並べたアンディ・ウォーホルの作品のことを指している。アンディ・ウォーホルと言えば、同じようにして制作したマリリン・モンローについての作品も有名だが、そうやってチープな複製を並べることで、アートとポップの境目を破壊し、さらに物事には「本質」などないのだ、ということを表明した、すぐれてポストモダン的なアーティストとして知られている。

 

そしてそういうアンディ・ウォーホル作品と同一のタイトルを持つ本作も、ポストモダン的状況を描いている。主要人物は、ずっと新作を書かずに隠遁生活を続ける有名作家ビル、ビルの居所を探し当て、ビルの家で住み込みで働くスコット、統一教会の信者だが、両親によって脱会させられそうになり、ビルの家に転がり込んできたカレン、作家たちの写真を撮り続け、ビルの写真も撮りに来たブリタ。かれらは「自分」「主体」の無さにおびえ、そして孤独や死にもおびえる。ビルは自分の稀薄な自我をなんとか隠遁することで維持しようとし、いつまでも次作を書かない作家として、未完の作品を自我の代わりにため込んでいる。しかしビルの死後にスコットとカレンが見るビルの連続写真フィルムは、まさにウォーホル的な代物であり、結局のところビルが必死に保存しようとしていた「本質」や「内面」の空虚さを訴えてくる。カレンは稀薄な自我に別れを告げ、アラブのテロリストたちと同じく唯一絶対な存在のもとで、集団に溶け込もうとする。ブリタの職業はまさにウォーホル的だ。彼女はウォーホルと違って「真実」への希求はあるのだけれど、それが得られないことが彼女をいら立たせている。結局のところ、かれらはみな、それまで我々の生活を支えてきた「主体」とか「自分」というものになんとか意味を供給しようとしてそれに失敗しているのだ。

 

最終的にビルは「自分」というものを内戦下のレバノンという極限下の状況に求めて、死んでいく。スコットとカレンは空虚な自我を抱えながら共に生きていくことを決め、ブリタは作家の撮影を止め、ビルの後を追うようにテロリストたちの撮影を始める。

 

この小説はある意味で「ジェネレーションX」に似ている。「ジェネレーションX」の登場人物たちも圧倒的に強烈な自我を振り回していた親世代に押しつぶされ、弱弱しい自我を抱えながら、社会の片隅で自分たちなりの生き方を探していた。ただ「ジェネレーションX」の登場人物たちは非常に禁欲的で、そしてコミュニケーションに飢えている。ひるがえって「マオII」の登場人物たちは、ちっとも禁欲的ではないのだけれど、コミュニケーション不全は「ジェネレーションX」の比ではない。

 

ところどころ、はっとする美しいイメージが提示される小説である。いきなり合同結婚式が描かれる冒頭のインパクトは満点だし、登場人物たちも興味深い。ただ、人って機能不全ですよね、ということを書いて事足れりとする典型的ポストモダン小説の域を出ていない感じもある。もう一つ気になるのはスコットとカレンがかなりフラワーチルドレンを思わせるような人々だということだ。隠遁の神秘的な作家というイメージもその頃を思わせる。だから70年代の亡霊が21世紀にやってきて戸惑っている小説と言えないこともないかもしれない。