Essays and Lectures by Ralph Waldo Emerson

読んだのは"Nature""The American Scholar""The Transcendentalist""The Young American""History""Self-reliance"。

 

エマソンはスピリチュアリストの元祖みたいな人である。基本的にはプラトン的で、あらゆる時代を通じて存在するイデアのような存在があり、それは自然を通して我々がアクセス可能である、我々はおのおのそういったイデアと一つになることで真の人間となるのである、みたいな感じだ。

 

興味深いのは二つ。

 

一つは"History"に見られる大胆な時間観だ。エマソンにとって一つの真実、イデアはあらゆる時代、場所に遍在している。そしてそういう真実はわれわれの中に認めることができる。つまりわれわれの中にはすべての歴史があるのである。すべての時と場所と普遍的なものを通してわれわれはつながっている。だから過去に起きたどんなこともわれわれは既に知っている。もうここには現在しかない。今ここが永遠の時間とつながっているのだ。こういうのは宗教的な愉悦とともに語られるものなのだけれどエマソンのトランセンデンタリズムにはそういう匂いがある。

 

そして"Self-reliance"に見られる徹底した自分中心主義。社会の規則なんて糞くらえ!自分だけを信じて生きていこうぜというセックス・ピストルズのような主張がここにはある。それを実践した19世紀末のセックス・ピストルズこそソローであった。そしてだからエマソンは子供の「無垢」を称揚する。これは退廃のヨーロッパと純粋なアメリカを対比することを好んだこの頃の知識人の姿勢が如実に表れているだろう。

 

アメリカン・ルネサンスでこのエマソンホイットマンは圧倒的陽キャだ。ホーソーンメルヴィルという心の滅入る超陰キャの対極にある。エマソンホイットマンもまだ誕生から新しいアメリカに夢を見てその夢を高らかに語る。かれらの哲学というのはやはり誕生して間もないアメリカの息吹きと共に現れたアメリカの哲学なのだろう。

ブライズデイルロマンス  by ナサニエル・ホーソーン

この小説を読み終えて私は首をひねった。はて?

 

ここには同作者の『緋文字』とか「ヤンググッドマンブラウン」のような迫力はかけらもない。知識人たちが自給自足を目指して作ったブライズデイルという共同体で、ゼノビアプリシラという姉妹(途中までは隠されている)がホリングズワースという自己中心的な博愛主義者に惚れて、振られたゼノビアに悲劇が訪れるというだけの話だ。

 

実際に何本か論文を読んでみたところ、小説の魅力についてのものというより、ホーソーンの女性観などについて論じる手がかりにしているものばかりだった。実際にこの小説においてはゼノビアプリシラ姉妹そして語り手であるカヴァーデイルが最も魅力的なキャラクターである。ホリングズワースは中心人物のくせにどうしようもないくらい深みのないキャラクターだ。

 

ゼノビアは女性性があふれ出ているようなキャラクターである。対してプリシラはおとなしくて従順、なんだけどつぶさに読むと何か後ろ暗いところがあって、それなのに最後はホリングズワースの良妻として収まっている。なぜ姉のゼノビアを死に追いやったようなホリングズワースとくっつくのかというところも何やら不気味である。

 

たぶんこの小説のミソは語り手カヴァーデイルにあるのだ。信用できない語り手とまでは言わないが、この語り手は『華麗なるギャツビー』のニック程度には語ることを選んでいる。だから読者はこの語り手のせいで、常に暗い場所を手探りで進んでいるような気分になり、プリシラについても語られないところがむしろ重みを持って読者の心に残る、そういう仕掛けになっているのだろう。実際に、カヴァーデイルが最後に自ら隠していたことを告白し始めるところはミステリー仕立てでドキドキさせられた。これがゼノビアを殺したのは自分だったみたいな告白だったら実に面白かったのになあ。

Tropic of Capricorn by Henry Miller

このヘンリー・ミラーには我慢できないことが一つある。それは流されるままに生活することだ!!

 

1920年代はまさにハイモダニズムの時代だった。フィッツジェラルドヘミングウェイ、フォークナー。綺羅星のごとく現れた才能たちは、人一倍小説の構成というものに敏感だった。ヘミングウェイの氷山の一角理論や、フォークナーの『死の床に横たわりて』などの実験を見ればそれがよくわかる。そしてフォークナーの実に見事な『響きと怒り』で1920年代が締めくくられて、やって来たのが無法の1930年だった。

 

典型的な1930年代作家はトマス・ウルフだろう。ひたすらに自分のことを書きまくるスタイルの彼は、構成なんてどうでも良かった。統一感なんてゼロのボリューム過多の作品は、しばしば批評家たちの攻撃の的になった。ヘンリー・ミラーも、自らのことを必要以上のボリュームで語りまくるという意味では、トマス・ウルフに酷似している。しかし、ウルフがあくまでも常識の範囲内で、なんなら読者の読みやすさを考えて小説を書いているのに対して、ミラーはそんなことは考えない。かれは、卑猥、猥雑、涜神的、コンプライアンスなんてまったく考えない汚言をまきちらす。現実に即した描写が続いたあとに自らの詠嘆や夢想パートに移行するのもウルフと同じだが、大変にわかりやすいウルフに比べて、ミラーの場合は往々にして何を言いたいのかわからなくなる。というのは、ミラーは現代社会を越えた新しい状態、言葉を探し求めているからで、それはこれまでにないコンセプトをなんとか説明しようとする哲学者の営為に似ているからだ。

 

ミラーがとにかく嫌うのは、"automated life"である。ほとんどの人は工場のラインに乗っかっている製品みたいに、自動化された人生にただ乗っかり、そして終点の死を迎える。ミラーはこれを打ち砕き、それを乗り越えた何かを手に入れたいと思っている理想家である。だからミラーは普通に大人になって普通に生きていくことを否定し、自分は時をさかのぼり、どんどん子供になっていきたいなんてことを言う。過激派になったホールデン・コールフィールドみたいなヤツである。そうやってミラーはわれわれが当たり前のように甘受している現代社会のあれやこれやの常識を破壊していく。かれにとっては汚いものもきれいなものと同じような価値があり、さまざまな境界は乗り越えられ、合一されていくべきなのだ。というか、かれはアイデンティティすら否定する。一人の人間がAでありかつBであるという状態がかれの理想であり、言ってることがよくわからなくなる一因は間違いなくこれである。

 

時間という観点で言うと、ベルグソンへの言及があるのは興味深い。直線的な時間に従って生きていくことへの嫌悪は明らかにベルグソンとの親和性があるし、そういう意味ではミラーもハイモダニズム以降のベルグソン的実験を行った一派に連なると言えるだろう。

 

いろんなものを統合したいという欲望を見せるミラーだが、その統合の象徴となるのが性的接触である。この小説に出てくる性行為は言ってみれば、すべてなにかほかのもののパラフレーズである。たぶん女性は女性ですらない。女性の身体をした何かなのであり、やたらと「子宮」を強調するのもそういうことだろう。どこの誰が女性の子宮に欲情するだろうか。こうした統合によってエリオットの言うところの荒涼とした現代社会を乗り越えていくのがミラーの試みとひとまずは言えるだろうが、実はこの小説で最も素晴らしいのはcodaだったりする。初めての彼女にスミレをプレゼントして一緒に映画に行ったら、自分のヘマで彼女のスミレが落ちてそれを踏んでしまった。「もういい」と言うミラーの前で彼女は笑顔でスミレを拾い上げ自分の髪に刺すというエピソードなど、それまでの乱痴気騒ぎがウソのような胸を打つ描写が続く。こういうメタルと歌謡曲の融合のような不思議な曲調から、女性(=女神)への切々としたゴスペルへと続き小説は終わる。怪作というほかない。

Mao II (マオ II)  by Don Dellilo

タイトルの「マオII」は、いろんな色合いの複製の毛沢東肖像画を並べたアンディ・ウォーホルの作品のことを指している。アンディ・ウォーホルと言えば、同じようにして制作したマリリン・モンローについての作品も有名だが、そうやってチープな複製を並べることで、アートとポップの境目を破壊し、さらに物事には「本質」などないのだ、ということを表明した、すぐれてポストモダン的なアーティストとして知られている。

 

そしてそういうアンディ・ウォーホル作品と同一のタイトルを持つ本作も、ポストモダン的状況を描いている。主要人物は、ずっと新作を書かずに隠遁生活を続ける有名作家ビル、ビルの居所を探し当て、ビルの家で住み込みで働くスコット、統一教会の信者だが、両親によって脱会させられそうになり、ビルの家に転がり込んできたカレン、作家たちの写真を撮り続け、ビルの写真も撮りに来たブリタ。かれらは「自分」「主体」の無さにおびえ、そして孤独や死にもおびえる。ビルは自分の稀薄な自我をなんとか隠遁することで維持しようとし、いつまでも次作を書かない作家として、未完の作品を自我の代わりにため込んでいる。しかしビルの死後にスコットとカレンが見るビルの連続写真フィルムは、まさにウォーホル的な代物であり、結局のところビルが必死に保存しようとしていた「本質」や「内面」の空虚さを訴えてくる。カレンは稀薄な自我に別れを告げ、アラブのテロリストたちと同じく唯一絶対な存在のもとで、集団に溶け込もうとする。ブリタの職業はまさにウォーホル的だ。彼女はウォーホルと違って「真実」への希求はあるのだけれど、それが得られないことが彼女をいら立たせている。結局のところ、かれらはみな、それまで我々の生活を支えてきた「主体」とか「自分」というものになんとか意味を供給しようとしてそれに失敗しているのだ。

 

最終的にビルは「自分」というものを内戦下のレバノンという極限下の状況に求めて、死んでいく。スコットとカレンは空虚な自我を抱えながら共に生きていくことを決め、ブリタは作家の撮影を止め、ビルの後を追うようにテロリストたちの撮影を始める。

 

この小説はある意味で「ジェネレーションX」に似ている。「ジェネレーションX」の登場人物たちも圧倒的に強烈な自我を振り回していた親世代に押しつぶされ、弱弱しい自我を抱えながら、社会の片隅で自分たちなりの生き方を探していた。ただ「ジェネレーションX」の登場人物たちは非常に禁欲的で、そしてコミュニケーションに飢えている。ひるがえって「マオII」の登場人物たちは、ちっとも禁欲的ではないのだけれど、コミュニケーション不全は「ジェネレーションX」の比ではない。

 

ところどころ、はっとする美しいイメージが提示される小説である。いきなり合同結婚式が描かれる冒頭のインパクトは満点だし、登場人物たちも興味深い。ただ、人って機能不全ですよね、ということを書いて事足れりとする典型的ポストモダン小説の域を出ていない感じもある。もう一つ気になるのはスコットとカレンがかなりフラワーチルドレンを思わせるような人々だということだ。隠遁の神秘的な作家というイメージもその頃を思わせる。だから70年代の亡霊が21世紀にやってきて戸惑っている小説と言えないこともないかもしれない。

Invisible Man (透明人間) by Ralph Ellison

アメリ黒人文学の古典である本作だが、まず何よりストーリーが面白い。現代黒人文学に付き物の観念的な思索などはなく、ド直球の波乱万丈ストーリーが繰り広げられる。深刻に、そしてとんでもない迫力で黒人たちの窮状を訴えるリチャード・ライト小説とはある意味対極にある小説だ。

 

言ってみれば、この小説は黒人版「ハックルベリー・フィンの冒険」である。ハックは自分というものをしっかりと持たず、いろんなコミュニティでいろんな騒動に巻き込まれ、その時々に応じてさまざまな社会的役割を装い、そしてすぐにミシシッピ河へと戻っていく。ミシシッピ河に浮かぶいかだの上でも、ハックは確固とした自分を持っているわけではなく、しかしだからこそ奴隷のジムを助けようという、当時の社会の規律に反したような考えにたどり着くことができる。

 

この小説の主人公も、いろいろなコミュニティによって"define"されてきた存在である。大学に行けば優等生として扱われ、北部に行ってBrotherhoodに所属すればそこのbrotherとして扱われる。そういう社会的アイデンティティを主人公は自分そのものだと思って生きてきた。ところが、主人公にそういうアイデンティティを与える人間たちはその実腐りきっていて、平気で主人公を裏切る。しかも、そこには一人の人間を「人間」ではなく「黒人」として定義してしまうような欺瞞もある。主人公はそういうシステムにうんざりして、「定義されることから逃れる=透明人間になる」ことを決める。

 

ここには「自由になること」「真の自己を探すこと」といった、アメリカ文学に通底するテーマがある。そういう意味では、この小説はアメリカ文学の伝統に沿った、実にアメリカ文学らしい構造を持っている。

 

ただし、システムから逃れて真の己にたどり着く、というのは少し考えればわかる通り、はなはだ疑問が多い理屈である。なぜなら普通は他者からの承認がないアイデンティティの形成など考えられないからだ。それゆえ、社会から逃れ、地下で暮らす主人公の自我は不確かである。かれは自分がどう考えるかではなく、誰が自分を通して物を見るか、という言い方をする。そこに確固とした「自己」はない。

 

この主人公の姿は、その後現在に至るアイデンティティ・ポリティクスの困難を予兆しているだろう。アイデンティティ・ポリティクスに拘泥すればするほど分断は進み、かといってそれを手放せば問題を等閑視することになる。自己が多分に社会的な自己である限り、それは必然的に社会的な問題も引き寄せてしまう。

 

という頭でっかちな議論は別として、結局のところ、読者の胸に温かく響くのは、ほとんど自己犠牲的に主人公を思いやる黒人老婆Maryの言葉なのだ。こういう黒人同士の友愛的な声やそれに伴う情愛の大事さを、たとえばボールドウィンなどは強調していくことになる。リチャード・ライトみたいにいきり立って黒人の権利を主張するのもいいのだけれど、そういう男性的な怒りが往々にして見逃すひそかな声の大事さも、この小説はすくい取っている気がした。

アナザーラウンド (2020)

中年の危機を描いた映画や小説はたくさんあって、2021年度アカデミー国際長編映画賞を受賞した「アナザーラウンド」はそんな映画のひとつである。

 

主演はデンマークの至宝ことマッツ・ミケルセン。マッツが演じるのは学校でも家庭でもうまくいかない冴えない高校教師。マッツはそのルックスに反して、こういう役ばかりやりたがる。一番合っているクールなイケメンの役とか絶対にやらない。結果として、ふだんはがんばって冴えない感じを出しているのだが、ひとたびスーツを着ると只者じゃない感が出まくってしまうのであった。

 

そんなマッツは三人の同僚教師とともに酒を飲むことでテンションを上げるという実験を始める。すると学校の授業では生徒たちに笑顔があふれ、家庭ではずっとぎくしゃくしてた妻から「あなたステキ」なんて言われてしまうのだった。そこでもっとステキになるために酒量を増やし始め…という話。

 

この映画の一番新しい部分は、アルコールに対して善悪の判断を保留しているところだ。アルコールを扱った映画は、まず「失われた週末」とか「酒と薔薇の日々」とか、アルコールがいかに恐ろしいものかということを説くところから始まった。ところがそのあとに麻薬というアルコールなんて比べ物にならない脅威が出てきたため、恐ろしさを喧伝する役割はそっちの方に行って、アル中というものはむしろロマンチックなイメージをまとってくる。「リービング・ラスベガス」がその最たるものだ。しかしいくらロマンチックでも、それは滅びゆくもののロマンティシズムであって、結局のところアルコールは良くないですね、という考え方は変わらないのであった。

 

「アナザーラウンド」では、アルコールに対してひとつの価値観を押しつけていない。アルコールはときに人を助け、ときに人を滅ぼすものである、という複眼的な見方を取っている。これは新しい。ただ、結局のところアルコールは何かを解決することはできない。マッツたちがアルコールに頼ったのは、人が飲酒に求めるふたつの性質による。ひとつはピアプレッシャーだ。高校生たちの飲酒は主にこれによるものだ。酒を飲むことで仲間の絆を再確認する、というか飲まないと仲間から排除されるのではないかという恐怖から人は酒を飲む。もうひとつは他者からの評価に対する怯えだ。高校の教師というのは、言ってみれば最もわかりやすい形で他者(生徒)からの評価にさらされている職業である。だから他者に対する自分をとりつくろうために酒を飲む。でもそれはマッツが一番大切に思っていた妻との関係にはあまり意味がなかった。妻に対しては素面で自分の言葉を伝えねばならなかったのである。

 

アレクサンダー・ペインの映画が好きな人はこの映画も気に入るだろう。結構ほろ苦いのだが、主演がかっこよすぎてそんなにつらくないという意味では「ファミリーツリー」に似ているかもしれない。

The Ballad of the Sad Cafe (悲しき酒場のバラード)  by Carson McCullers

カーソン・マッカラーズという女流作家についてはいくつか知られていることがある。南部作家であること。アル中であったこと。レズビアンであったこと。そして小説のタイトルが過剰にセンチメンタルであることだ。

 

代表作の『心は寂しき狩人』からしてすごい。でも小説はセンチメンタルというより重量級の南部ゴシック小説だ。この点でマッカラーズとよく対比されるのが同じく南部の女流作家であるフラナリー・オコナーだ。代表作の「善人はなかなか見つからない」は単なるクリシェだ。言ってみればことわざみたいなものだ。小説ではこういう手垢のついた表現をさかんに口に出し「みんな」が「ずっと」生きてきたやり方で生きていけばいいと思っている人々がとんでもない目に合う。要はタイトル自体が読者を釣る仕掛けのようになっているのだ。ところが、マッカラーズもオコナーも、タイトルの好みは違うけれどその小説の衝撃度合いは似たようなものだ。

 

「悲しき酒場のバラード」は、タイトルだけ見ると夜更けの酒場で美しい女性がマスターになぐさめられているといったような情景を想像してしまうが、あにはからんや、実態は怪獣大戦争である。

主人公のアメリアは男まさりどころか半分以上男のような女性で、吝嗇、愛想が悪い、と悪いところだらけのようだが、金儲けの才はあり医療技術もある。彼女は以前にほんの少しの期間だけ結婚していたのだが、たぶんレズビアンである彼女は男とのいっさいの肉体的接触を拒否し、男を叩き出してしまった。

そんなアメリアのところに彼女のいとこを名乗るせむしの男がやって来るところからすべてが始まる。アメリアはなぜかこのせむし男を気に入り、家に入れかいがいしく世話をする。そしてそれまで愛想が悪いにもほどがあったアメリアは酒場を開き、そこが村人たちの交流の中心となる。

 

しかし好事魔多しで、以前アメリアが叩き出した男が村に戻ってくる。かれはもともと暴力的な気質であったが、挫折はかれを凶悪な犯罪者に変え、刑務所に入っていたのだ。釈放されたかれは憎悪を抱えてアメリアのもとにやって来るのだが、ここからの展開がとんでもない。予想できる人はおそらくいないだろう。

 

この小説の大事なポイントのひとつは「愛すること」なのだと思う。小説中の愛はちっとも報われない。愛することで人は弱くなり、孤独になる。それでも人は誰かを愛さざるをえない、わけではない。家に閉じこもり、ときどき窓の外をうかがうだけになったアメリアの姿はそういうことを伝えてくる。それでは北斗の拳サウザーのように、愛なんて捨てればいいのだろうか。そういうわけでもない。人を愛したアメリアと彼女の元夫は少なくとも人間的である。それに比して、誰も愛さずただアメリアから愛されたせむし男は悪魔的である。小説にかれの年齢がわからないという描写がある。たぶんかれは人間ではない。愛されるだけで愛することをしない人物は「人間」ではないのである。

 

『心は寂しき狩人』とかこの小説を読むと重いパンチをボディに食らったような衝撃を受けるのだが、マッカラーズの短編はかなり口当たりがいい。同じ作者とは思えないくらいだ。南部ゴシック的な感覚があまりなく、ウェルメイドな短編という感じがある。ただちょっとヘミングウェイやらフィッツジェラルドやらの影響も強く感じるのでマッカラーズが独自の才能を発揮したのは中編以上の長さであったのかもしれない。